わたしの答え、「死にかけの私の生きる方法」

 私の生きる方向性、誰より不幸になる。私の体内に悪、不安、憎悪みたいな

悲劇を蓄積するのが私の使命なのかな。わたし以外の全人類よりも、不幸になって悲劇を迎えることで、私は、わたしを許してあげられるのかな。

 不満も不安もない。最底辺の経験を得て、黒い世界観を私が持つことで、私はわたしのまま死ねるのかな。

 

 バイトも勉学も、あらゆる面で私を追い詰めて、悲劇の状況になることで、

安心する、許される。世界の人よりも、不幸な人生を歩まないと、私は不安なんだ。

私にとって、不幸になることは当然のことで、私には不幸に死ぬ権利しかないから。

 生きる資格もないのに、我がままで生活しているようなものに、不幸になっていない、現実と脳の世界観との違いに、違和感や不思議を感じるし、世界が崩れてしまう。

不幸になるべき人間は、絶対に、不幸になるべきだと思う。

 私は、幸福に生きることはできないのだから、幸福を目指して生きるのではなく、

裏切られ続け、不幸を積み重ねていく。最底辺の私の幸せが、不幸になることなんだね。

 

 わたしって、私が不幸になる状況になりそうになると、望んで悲劇に向かおうとする習慣ありますね。理不尽は当然、私が負うべき責任であり使命なんです。

 理不尽に怒られる経験すると、安心する。ああ、わたしってやっぱり死ぬべきにんげんなんだなって思える。私の本心を、あきらめる理由を、言い訳を欲しいのかな。

幸福って残酷な言葉、希望を持って生きたくないから、理由を欲しい。

 私が地獄に落ちる理由が欲しいだけかもしれないね。私が失敗して、何もかも台無しだねって、その言葉が心に残り続ける。確かに、どんなに努力して生きようと、最後は痛み、もがき、苦しみ耐え、死んでいくことしかない。

 死ねるなら、まだ幸福だ、恐怖に支配されて、生きる奴もまたいる。そう、

わたしのこと。

 

 私は、働いて安定した時間が欲しいのかな。

理不尽を受け続ける環境が欲しいだけなのかもしれない。すべての理不尽を積み重ねて、過労で倒れる。結局、終わりたいだけなのかな。

 動き続けて、いつの日か、何も考えずに、倒れて、もう動かないようになりたいのだ。要は、働き続けて過労死で意識を亡くしたい。理想的な最期。わたしの答えは、

 抗えずに、変化する私を、近くで見てみたい。これかな。