わたしにとって、過労死や事故死で、悲劇的な最後は普通のことで、何も悲しい出来事じゃない。人は、自分の心を維持するために、悲劇を普遍的で一般的な日常と認識するようになる。
わたしは軽蔑されて当たり前、殺されて当然、明日、強盗によって無意味に殺されてもなんの違和感もない、なんの不思議もない。それがわたしの普通で日常。
だから、幸福に生きている私なんて想像もできないし、もしもそんな私が存在するとしたら、不思議で仕方がない、違和感しかない。
根本的に、わたしの本質は、いつ死んでもいい、何の価値もない命なのです。
なのに、生きているって、わたしって不思議、ふとした瞬間に思う。
生きていることは、私のわがまま。許されてもいない生、望まれている死。
わたしの命って、消えているのと同じなんだ。
親族っ不思議、わたしの存在は、親がいなければ成立していない。
私の命は、親に依存していて、彼女、彼らに少しでも否定されたら、もう生きている意味も理由も何もない。もともと、わたしのエゴで生きているのに、私を産み、育んだ神様に否定されたら、私の命に何も意味がない。だから、今日も、私の命は消えていく。私の構成するものがみんな、消えていく。
幸福にも、不幸にもなれない、わたしは。消えてなくなって、二度と存在したくない。
わたしにとっては、否定されて、私がこの世界にいらない存在だと考えたから、
死ぬことが正解なのだと思っただけの事、私の命が必要ないと聴こえる。
元から、消えるべきなんだと内心、思っていたけど、わたしってやっぱりこの世に
いちゃいけない、醜い悪魔なんだな~って思ったな。高校生の時は、親と食事しながら、わたしはこの世にいるべきじゃないって、心の底から聞こえてきたよね。
みんなも、自分の命なんて消えて、当然。そうだよね、わたしだけかな。
生きているのを否定されてしまうのは、わたしだけ?
みんなは、生きてもいいけど、私はだめなんだよね。
たとえ、腕を切られようと、出血多量で意識がなくとも、食料も水もなくて動けなくても、わたしだけは、泣いて逃げ出すことは許されない。
わたしだけは、不幸で地獄の道をあゆまなければいけない。
そうですよね?、わたし間違ってますか、この世に正しいものなんてないですから、
やっぱり、私って死ぬべきですね、きれいさっぱり無くなって、この世界とはお別れです。
思い出した、わたしの心が破壊された日、私が明日からも平然と生きるためには、
今日と同じように話して、笑って、考えて、勉強して、普通に食事をするには、
わたしがすべての心を押し殺して、我慢して、すべてを忘れて、受け入れて、
笑顔を作って、仮面を被って話すしかなかった。私にできることなんて、それしかなかった。
何もかも、否定されて、失って、笑っていわれるわけがない。
だから、私は、わたしの持っている全てを歪めて、笑った。あの日、歪んでしまった私の心はもう、元の形には戻ってくれないのかな。
もし、本当に歪んでしまったのが、わたしの命でなく、心なのなら、
救ってくれる誰か、救いになるものが、この世にあってもいいよね。
歪んでしまった、わたしの世界、救ってくれませんか。