もしも、寿命が1年なら、わたしもがんばれるのかな?

今週のお題

 

 いつ頑張るのかなんて、生きている間にしか行えない大義なのですからね、刹那のこの瞬間に行動する心が、正義と分かっている。

 人のモチベーションは、締め切りから何日前に初めたら成功するかを計算した結果で、決まる法則性がある?気がします。

 

 「もしも、寿命が1年になったら、わたしでもがんばれるのかな?」

終わりが、視界に入れば、人はアクションを起こすかな。寿命が近いと、死を近くに感じますし、距離感が、年上の上司から、一気に同年代の女の子くらい近くになりますね。

 実際に、寿命は細胞分裂の可能回数で推測できそうですよね。

では、抗がん剤という諸刃の剣で、細胞分裂を阻害すると、人は終わりは見えてくるかもしれないね。でも高価なので机上の空論にしちゃいます~。

 死亡率が高まると、警戒している行動を起こしていくのが、一般論ですよね。

 

 寿命が1年として、人間はどうするべきなのでしょう。

本質的な、解答は何でしょう?、ケーキという糖分を唾液で分解することなのかな。

それとも、人には心があるから、笑って死ぬ幸福論で過ごす道もあるのかもです。

 わたしは、厳正な態度で、ブランコをこいで、公園でわたしの寿命にご挨拶。なんて

はかなくも美しい、大学生のわたしには、贅沢な生きざまですよね。

 

悲劇のヒロインを演じる必要もないですよね。でないと、笑えなくなるのに、数分もかからなさそうです。

 ああ、人の本質は生きることだから、死に近づきたくないと、抵抗して、思考を止めないのが解答かもです。

 

もし、そうなら、わたしは、人間の枠から走って抜けてやるんだ。

 不適合になっても、いいから、一人でも気にしないから、

  自由な心も、自由でない日常も必要ないと思ってしまいます。

   死に魅せられた人って、死を近くに感じたい欲求でもあるのかしら。

    結論を言えば、わたしにはそれがあるのです。